クオリアそのものじゃないけど
朝一番になんか、降りてきました。
多分、夢とか無意識の世界にいる、もう一人の私が、知らない間も整理して伝えたかったんだろうと思います。
だから忘れないように記録します。
『赤の赤らしさ』人それぞれが感じる質感をクオリアと呼ぶそうです。(茂木先生がテーマにされている概念で知りました。)
クオリアそのものじゃないけど、それに関連して、知性ってなんだろう?について。
人それぞれ見て聞いて触れて嗅いで食べて、感じるところは異なる。
同じものを体験しても、頭の中じゃ、バラバラのことを考えている。過去に経験した体験や記憶、価値観が人それぞれ違うから。
そこを分かりやすく人に伝えるのは、言葉であり、だから言葉をより上手く扱えたり、物知りな人に対して、人は知性ってのを感じるんだと思う。
本を書いたり、論じたりの表現だけでなく、話をしたり、演技で表現したり、何か一つの研究をコツコツ続けて発見や発明したりって、言葉によるところが大きい。
音楽や美術は非言語ですが。
一方で、めちゃくちゃ物知りであることが全ての場合に深い意味があるか、というのはまた別で、住んでる世界、コミュニティの中で、生きる言葉の数も種類も言葉の持つ意味も変わってくる。
行動したり、アイデアを出したり、人の意見をまとめたり、気持ちを汲んでくれたり。
ただ黙って話を聞いてくれるだけだって、実は話し手が、思いの丈を言語化して整理するのを、とても助けてくれている。
勿論、非言語の表現や伝わる気持ちも大切です。
ただ、発信側と受信側の気持ちは、その人の世界でその時一番しっくり腑に落ちる解釈になるだろうから、ある人が感じたクオリアをなるたけその通りに誰かに伝えたければ、それを翻訳する機能として、沢山言葉を知ってる方が、あーでもないこーでもない、って材料は豊富だよね、、、
って話です。
鏡のようになって、自分からは何も与えず、ガイドせず、ただその人の言葉を返すって方法は、その人の中で、その人の扱える言葉や概念の範囲内で、その人の理解の範囲内で、反駁して腑に落ちるアイデアを探し出すことなのかな、、、
人の心の中は、絶対理解できない。
皆んな違う。
だから面白いのかな。
いつか見たいこの目で、と思っていた光景を、現実に見て(少し違う形でしたが)、それまでに描いていたイメージもクオリアだし、実際に感じてアップデイトできたのも、今のクオリアだな、、、などと考えながら、旅先で書いています。
そろそろ賑やかになってきました。