『嫌いっ!』の運用
中野信子さんの本を久々に買いました。
先生の本は、大体持ってるんじゃないの?ってくらい、以前ハマっていたから、今更感はあったし、もう怒りとか嫌いな感情も、吐き出しつくしたかなあ?そろそろ、って思ってはいるんですが、それでもやっぱり、読んでいたら、気付くと本に耳折り一杯してしまうくらい、中野信子さんの本には、人のココロの闇部分を照らしつつ、炎症を抑えて静めてくれるような効果があるんですね。

先生の個人のブログとかでは、アグレッシブな面も、お見受けしますが、そこがまたいいのかも。

普段の読書パターンでは、かなり印象深いとこを引用しまくるんですが、ちょっとスマホで長文を打つ気力体力が切れてしまって、、、

沢山ビビビッときたのですが、何点かメッセージとしては、

嫌いな気持ちを認めてあげましょう
自分が他人を嫌いな気持ちを許してあげないと、他人があなたを嫌う気持ちも、許せないんだよ

ってのが響いたかな。

他人を嫌うには、そこから学べる何かがある。自分が目を背けたい何かが。

ここから先は、多分、本の内容から逸れますが。本を受けての私の頭の中。

人が人を許せないと思う気持ちの一つに、『あいつはなんかずるい』ってのがかなり上の方にあると思うんですね。

例えば、、、

ずるい人。

例えば授業中寝ていて態度悪いのに、スポーツもできて、テストで高スコア弾く人。かつ顔もよくて、ちょい悪な雰囲気醸し出したりして。ひょうひょうとして屈託ない笑顔。

→ただのモテて、要領いい人だ。

ずるい人。

顔も可愛くて、服も可愛くて、小物も可愛くて、声も所作も何もかも可愛く、控え目な雰囲気で、周りがほっておかない。語気荒く他人批判なんてしないタイプ。でも『私なんて、、、』とやたら自己肯定感低めが前面にあると、思わず守りたくなるのが、普通でしょ?

→陰で努力してるだろうし、美意識に相当エネルギー使ってる努力の人だ。ブレない可愛さ。

結局、自分にはないモノを持っている人に対する妬み、そねみ、僻みだな、根底にあるのは。ルッキズムに繋がりますが、正直なところ、羨ましいぞ。近しい間柄ではないけど、モデルはいます。

他にもまだまだ思いつきますが、ドロドロしすぎで言葉にできないので、この辺にしておきます。

ただ、嫌い、っていう感情が何からくるのかを、ちゃんと内観できるか、気付かないままでいっちゃうのかで、ヒトの心の在り方や振る舞い方は、一線を画してる、そんな気がします。他人がどうこういうような話じゃないんですが。

私個人的には、人のこういうとこ嫌い、って好き嫌いはっきりしてる人は嫌いじゃない。かつ自分の悪いとこや弱さに目を向けた上で、自分のことは好き、って人は嫌いじゃない。

また、本でも紹介されてますが、『嫌い』には二種類あって、生理的に嫌い、っていう扁桃体や海馬の働きで感じる嫌いと、もう一つ、眼窩前頭皮質で合理的な理由があって、経験や価値判断があって、嫌いと判断するこの種の『嫌い』は、新しい考え方や体験が加わると更新されるということ。アップデートされうるんですね。

私見ですが、人を好きになるのに、これって理由がないのと同じように、嫌いになるのも、確たる決め手はない。

初め、なんか気に入らないと思ったのが、気付くと大好きに変わってたり、それまで仲良しだったのが、ある日を境に、周りが理解不可能な位、急転直下ギクシャク変なことになってる、、、

確かに直感的に判断する好き嫌いもありますが、やはり小さな事実の積み重ねで、好き嫌いを判断する材料は集まってるんですよね、、、ただ一つ一つが取るに足らなさすぎて、理由として言葉に表すとなんか説得力がないから、言わないだけ。

好き嫌いは、表裏一体。
可愛さあまって憎さ百倍とかいうし。

感情的な好き嫌いや理性的な好き嫌いも、なんか密接に交信して、流れの中では揺らぎのようなものがあると私は思っています。私はフワフワとブレやすいので。

本では、ヒトや動物がヘビを嫌いって感じや、思春期の女子はグループで男性を嫌悪する、とか、親子間の嫌い、同族嫌悪、嫌いは生存のための機能、嫌いを知ることは己を知ること、などなど書き切れないくらい『嫌い』てフレーズが出てくる。まさに『嫌い学』のバイブルってゆっていいんじゃないか。

『嫌い』を前に進むパワーに、『嫌い』を戦略に。

最近は、嫌い、って感情が『怒り学・嫌い学』を突き詰めすぎて、私自身少し飽きてきた感がある。今は心の壺が『好き』で満たされているから。多分。

少しずつ手放したかった嫌いって感情を手放すことができてきたのかな、って思う今日この頃。ある日、克服しなきゃいけないくらいトラウマチックに嫌いな子が、夢に出てきて、私の友達の横で、笑ってるんですよ。まるで、私の友達が、(この子、いい子だよ)と言わんばかりの演技をして、私の無意識が私の意識に語りかけてる。

目が覚めて、あー、やっと手放せたのかな、と。

嫌いは、はっきりいって、人格の否定につながりかねないので、まあまあ他人から嫌われようと、自分からは、嫌いな人が少ない方がきっと楽なんだろうとは思う。

でも、人に対する嫌いの感情が減ってもなお、体験した事実に対する『許せない』って気持ちはまだあるし、自分の感情や価値判断から、どうにも許せない合理的な理由があるのだから、その気持ちに蓋をする気は今のところない。

いつか、私が『許せない』を『許せる』位アップグレードされる日までは。

もちろん、私のことを許せないと思う人だっているでしょう。どうでもいいなら、忘れていただいて一向に構いませんが、内観する機会となりましたら、幸いでございます。
2021/3/13